【文屋康秀】 (ぶんやのやすひで)
ふくからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしといふらむ
ふくからにあきのくさきのしおるればむべやまかぜをあらしというらん
「からに」は、と同時に・・・・や否や。
「むべ」は、いかにも、ナルホド。
作者は六歌仙の一人。三十六歌仙より、ワンランク上?とされている六歌仙ですが、
身分は低く、卑官。単なるヒラ公務員でありました。
嵐という字は山に風を重ねて作った・・と言う・・・
古人の心が良く呑み込めましたヨー!と、感心しているのです。
誰にも共感が湧くナルホドの和歌ですね。
「秋の草木のしをるれば」・・
が、効いていて名も知れぬ秋草が風圧によって千々に乱れる有様が素直に伝わって参ります。
台風のことを「野分(のわき)」と表わしたりするのが日本人。
嵐=台風という好ましからざる天災も、その文字の成り立ちを詠って楽しむ。
つまり、ネガティヴをポジティヴに転換してしまう、
という日本文化の神髄がさりげなく語られているのです。
何でもないようですが、なかなか気の利いた歌、そう簡単に誰でも出来る訳でなく・・
案外こういうのは作ろうとすると難しい
さすが六歌仙と称される名人。
が、この文屋康秀の作品はわずか数首。
六歌仙でも三十六歌仙でも、この文屋康秀の様に、作品は沢山残されていなくても、
称えられて、知名度が高い歌人があるのは、平安貴族の日記が沢山残っていて、歌人の活躍が随所に綴られているから・・・
作品は残っていなくても、その活躍ぶりは、日記の存在によって今に伝えられてきた。
そもそも六歌仙(ろっかせん)とは、『古今和歌集』の序文「仮名序」において、
紀貫之が「近き世にその名きこえたる人」として挙げた6人の歌人の総称。
僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大友黒主
その当時すでに歌人として名の通った歌人を紀貫之が列挙したことから六歌仙という呼称が生まれた。

コチラは、菱田春草作、【六歌仙屏風】
が、この文屋康秀の作品は厳密に言えば、この和歌を含めて3首しかないとも言われていて、
それなのに貫之の称賛をうける名歌人=六歌仙に列挙されている。
不思議なことですが、
この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば・・・
と権勢をおおいに誇ったかの藤原道長、
約1000年前に日本を牛耳っていた御方ですがこの御方の直筆日記が、今でも京都の宇多に保存されている。
御堂関白記(みどうかんぱくき)と呼ばれ、国宝指定を受けている古文書がそれ。
この日記だけでなく、数多の上流貴族が長年付けてきた日記が残っており
中には70年くらい続けた御方の日記までそっくり残っている。
つまり、日本の平安時代の歴史は事実その時代に生きた人によって明確に記され、
今だにそのまま遺されている・・・・・
日記ですから雑多なこと、・・・今日はあの人が訪ねてきたとか・・・おとといは欲しいものが手に入ったとか・・・
人事百般、・・時事も加わって、あらゆる当時の有り様がツブサニ書かれているわけですね。
こんな、驚くべきことは、日本だけナンデス!
どこの国に1000年前の日記が残ってるでしょう?
歴史を作ってきた本人達の手記によってその時代の動きが明確に解る国など
日本以外に有りはしません・・・・
これは凄い事!!!。
ホント!! あまり知られていない日本の素晴らしさなんですね。
で、文屋秀康が三首しか作品が残ってないのに和歌名人とされたのは、貴族の日記にたびたび登場しているから。
今で言えば、サッカーの名選手とか、有名芸能人とか超話題の人物の一人・・・
横綱を連れて歩きたい相撲フアンオジサマ・・が絶えないように、
歌人を侍らせて日常を暮らしたい貴族が大勢いたのですね。
当時の和歌のお楽しみは実に深く幅の広いものだったのです。