【黒き猫】 屏風作品
コチラも、菱田春草晩年の傑作。
柿の実りを、別に・・・食べたいはず・・もないのに・・
小さな黒猫が丸くなって、さりげなく仰ぎ見ている・・・
その背中には、今盛りなるシオンの花が・・・
何でもない、ちょっと田舎に行けば・・・今でも見られそうな景
とりたたて、目立つ設定もなく・・・・派手さから言えば
残念なくらい地味な・・・・あえて言うこともないくらいの
目立たなさ・・・・
大天才春草は、その目立たない設定をわざわざ六曲屏風という大画面に描いた。
六曲屏風一双ですから、・・・・・
幅も高さも【落葉】の屏風ほどではないが
・・これは、けっこうな大画面。
【落葉】同様、勿論・・・
どこそこの場所・・・・という説明はなく、
地面の説明すらない
ただ色彩を用いない空間=余白が大部分を占め・・・・
そして、紫苑の花と柿の木とに囲まれた黒い子猫が丸くなっているだけ。
しかしそれらも・・・個有色としての説明は殆どせず、
必要最低限の色彩に限定しています。
形態も色彩もこれくらい純化されたものはない・・くらいに・・・
余計な色もなければ余計な形もない。
要らざる事の一切を省略し
“面白いもの”だけで絵にしているのです。
しかし、シオンらしさ、柿の木らしさ、猫らしさ・・・・
現実のシオンでもなければ、柿の木でもなく、猫でもない・・・・が
そのものの“らしい姿”。それらしさ・・・・は最低限残されている。
【落葉】の屏風でも、始めは遠近感に捕らわれて、
説明としてのドハを描き入れたが
途中で地面の説明は要らざるものと気付き、
地面に散らされている紅葉を描くことで
地面の説明に代えたのです。
ドハを描いてしまった作品は途中放棄して
新たに描き直したのが、かの重要文化財指定となった代表作
【落葉】となったことは前にお話しましたね。
【落葉】ではまだ高い写実性を(限定的ではあるものの・・・)極度に利用しているけれども
コチラの 【黒き猫】では写実性すら省略しようとしている。
いらないものを悉く排除しようとする点においては、
この【黒き猫】屏風の方が“抜き差しならない厳しい作品”、と言えましょう。
つまり、この作品は、失明寸前の天才画家が昇りつめた
桁違いの、次元を異にするほどの高さ・・・を見せつけているのであります。
なんでもない、どこにでもありそうな日常を
とんでもない非日常の高みに昇華してしまったのでした。
これは落葉を描いた直後の作品であります。
拡大して見ると、柿の枝には一羽の小鳥が止まっていて・・
丸くなっている黒猫は、きっと、この鳥が目当てなんでしょうね・・・・